河野通清は一遍上人の曽祖父であり、源頼朝の依頼を受け高縄山に居城を構えた、河野氏の祖たる人物です。
平氏優勢のなかで反旗を翻し源氏方として戦うも、道後からの帰城途中、敵の伏兵に遭遇
戦況が不利となり、この「山の神古戦場」にある松のもとで割腹しました。
その松は現在既に枯死してしまっているのですが、周辺は整えられており
更にその上にある関所跡にも、通清の供養塔が建てられています。
この周辺はいつも通るのですが、実を言うと最近まで全くその存在を知りませんでした。
前回投稿の粟の井から東側にある史跡で、天候や用事の都合が重なって先日やっと行く事ができました。
今回は通清が割腹した山の神古戦場と、その上部の通清供養塔のある堂を見に行きます。
通清墓所の参道入口から見える、小さな石階段を登ったすぐのこちらが山の神古戦場。
16騎と120人の兵を道後から持ち帰るも伏兵に襲われ、この地で敗れたようです。
通清の割腹した場所はこの左側、大松の下だったようですが、冒頭で書いた通り既にその松は枯れています。
上の写真右側が、枯死した大松の切り株です。 更に右上の端に見えるのは一枚目中央の社です。
左側に説明の看板がありますが、その看板自体が朽ちて倒れ、既に字も読み難くなっています。
観光客のあまり来ない、隠れた史跡であるようですね。
奥側はそれなりに開けています。
この日は日差しが強くて歩くと汗が出る程だったのですが、木陰で風の入るこちらは気持ちが良かったです。
この後ろから更に坂を上って、道清供養塔を目指します。
道の横には間隔をあけて地蔵が置かれていました。
こちらが通清供養塔のある堂入口。
小山の頂上にあり、旧郡の境となった地点で関所の跡でもあるようです。
木々で大きく遮られていますが、左には西側の瀬戸内海も見る事ができます。
この日は霞みが少なく、向こう岸や小島がハッキリと見えました。
入口から上がり、供養塔のある堂に入りました。
元々、この地で通清の100回忌にあたる1279年に、通清の曾孫である一遍上人が万霊塔を建てて供養したそうです。
現在ある供養塔は江戸時代中期以降に造立とされ、そこには「南無阿弥陀仏」が刻まれています。
賽銭箱も設けられていましたので、お賽銭を入れてお参りする事にしました。
う~~~~~~ん
なにかブンブン五月蠅いなあ。 この時期に蚊?
しぶとい奴も居るんだなぁ……
あっ……(;´∀`)
拝礼を早々に済ませて逃げました。 半袖だけど刺されなくて良かった~!
人の少ない田舎の史跡だと、ハチの巣には常に気を付けなくてはいけませんね;;
クマじゃないので背を向けて逃げました(笑)
上の写真だけライトボックス外してま~す;;
下側の、山の神古戦場横から。
小川から北条辺りまでの海辺が見えています。(小島の横は大浦ですけどw)
実は上の供養塔と下の古戦場とで日を変えているのですが
上空に雲のあった古戦場を撮ったこの日が一番、迫力のある景色でした。
次は紅葉を見に行こうかと。 ではまた!